月刊 小品文 (海江田万里の政経ダイアリー)

2024年12月2日号

永年在職議員表彰を受けて

12月2日、衆議院本会議にて永年在職議員の表彰を受けました。
縁あって、野末陳平参議院議員の秘書として、国会に足を踏み入れたのが1972年。田中角栄内閣誕生の年です。
半世紀にわたり、国会で仕事ができるのは、一重に皆さまのおかげです。あらためて感謝申し上げます。
本会議場で読んだ謝辞をご一読いただけると幸いです。

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「永年在職議員表彰に対する謝辞」

この度、院議を以て永年在職議員の表彰を受けましたことは、まことに光栄の至りであり、額賀議長をはじめご在席の各位に深甚なる謝意を申し上げます。

私が衆議院に初めて議席を得ましたのは、1993年7月の第40回選挙においてであります。爾来、衆議院議員選挙に当選すること9回、議員として在籍すること25年。この間、浅学庸才の私を永年にわたりご支援いただいた選挙区の有権者の皆さま、多くの労苦を共にした事務所の諸生、そして家族に、心から感謝の意を表します。

初当選した第40回選挙では、細川政権の誕生により、いわゆる「55年体制」が崩壊し、「政治改革」が叫ばれ「政治とカネ」の問題を解決するため小選挙区比例代表並立制の選挙制度が導入されました。しかし、それから31年が経過して、再び国会で、「政治とカネ」の問題が取り上げられ、「政治改革」が大きなテーマとなっていることに対し、この間、政治は何をしていたのか、私自身、内心忸怩たる思いがします。

25年の議員在職中私は、主に財務金融委員会、決算行政監視委員会で委員をつとめ、それぞれ委員長も経験させていただきました。国民に負担を強いる租税の内容を定め、その使い道を監督することは議会の最重要の役割です。長年にわたりその重責の一翼を担えたことは私の最も喜びとするところであります。

初当選からの30年余りの政治人生をふりかえり、脳裏に浮かぶ事蹟のひとつは2011年3月、福島の原子力発電所事故に際して、経済産業大臣として対応にあたったことです。事故の収束に向け心血を注ぎましたが、その評価は後世の歴史家に委ねたいと思います。

さらに忘れられないことは2014年12月の選挙で民主党代表をつとめていた私が、自身の議席を失ったことです。恥ずかしさに消え入りたい思いの私に対し、「世の中には勝利より誇るに足る敗北がある」と励ましてくれた支持者に支えられ、2年10か月にわたる浪人生活を耐え忍び、復活を果たすことができました。

その後、2021年11月の特別国会で第68代衆議院副議長に選ばれました。身に余る栄誉です。「功遂げ身退くは天の道なり」との『老子』の言葉に従い田園に帰ることも考えましたが、現在の混迷する世界情勢、日本が置かれた厳しい環境の中で、人々の豊かで安心できる暮らしを実現するため、そして非戦・平和の日本を守るため、今しばらくは力を尽くそうと決意し、今日に至っています。

結びに、今は亡き父母に感謝の念を伝えることをお許しいただきたいと思います。特に代議士になる夢を諦め、政治記者として一生を終えた父が、この議場のどこかから「万里おめでとう」と声をかけていてくれる気がします。

本日は永年在職議員表彰、 まことにありがとうございました。

海江田 万里

「選挙を終えて」2024年11月

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